2025年6月18日(水)~9月1日(月)
チラシ(おもて・うら)
「裸婦の寺内」と呼ばれるほど、生涯裸婦像を描き続けた洋画家、寺内萬治郎(1890‐1964)。寺内の知られざる一面として、子ども向け雑誌の「童画」の仕事があります。本展では、童謡のために描かれた愛らしい子どもたちの挿絵や、優れた観察力で描かれた観察絵本『キンダーブック』の表紙絵と挿絵を中心に紹介いたします。
寺内は、大阪で有名な芋問屋の三男として生まれました。1903(明治36)年4月、大阪府立天王寺中学校に入学、3年生の時に松原三五郎の画塾に入り、鉛筆画、水彩画を学びます。
1909(明治42)年、同中学校を卒業後上京。白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受けます。1911(明治44)年4月、東京美術学校西洋画科本科に入学。1918(大正7)年、文部省第12回美術展覧会(文展)に初入選。1925(大正14)年、第6回帝展、1927(昭和2)年、第8回帝展にて特選を受けました。
その後も光風会や新文展、日展などで裸婦や人物画を発表し続け、1951(昭和26)年には、前年の第6回日展に出品した『横臥裸婦』とその他一連の裸婦画に対し、日本芸術院賞を受賞しています。1960(昭和35)年には日本芸術院会員となり、日展理事も務めました。東京美術学校や東京教育大学、新潟大学の講師として、後進の教育にも尽力しています。
裕福な家庭で育った寺内でしたが、1913(大正2)年、東京美術学校3年生の時に生家が倒産。自活することとなり、学費を稼ぐために、高いデッサン力を活かして植物標本図を描きます。1918(大正7)年に結婚、翌年には長男、1922(大正11)年には長女が誕生。生活費のために、寺内は1923(大正12)年頃から、児童雑誌の表紙絵や挿絵も手がけるようになります。
大正時代は、児童雑誌の装幀や挿絵における芸術的関心が高まった時代であり、子どもたちを文章だけでなく、視覚的にも楽しませようという気運がありました。これは後に「童画」という一つのジャンルとして確立していきます。寺内も、その担い手となった画家の一人であり、『金の星』や『コドモノクニ』など、当時子どもたちの間で人気を博した児童雑誌に、表情豊かな作品を寄せました。昭和には、自然や乗り物などを写実的に描いた観察絵本『キンダーブック』の表紙絵と挿絵を手がけ、持ち前のデッサン力を惜しみなく発揮しました。
これらの仕事が盛況となったことで、絵画制作で念願のモデルを雇えることになり、後に生涯の仕事となる裸婦像を多く生み出していくようになります。
子どもたちを楽しさや学びの世界へ誘った、寺内の童画の世界をお楽しみください。